◆陽林寺本堂

 現在の本堂は文化2年(1805)に竣工したもので、山号とされる位作山に包まれた静寂の地に建立されている。永い寺歴のなかで祝融などにあい、また、寺地の移動のあったことなどが『禅寺記』に遺る。現堂は柱間11間、梁間7間半、建坪91坪の大堂で、その造作は堅牢にして機能美を備え、堂々たる風格をもっている。長押の上の「位作山」の山号額は高僧月舟宗胡の書によるものである。

◆山門と仁王像

 陽林寺山門(三門)は、昭和9年10月19日起工、翌10年4月28日に落慶式を挙行した。その時の住職二十九世月騰和尚の記録によれば、釈尊降誕弐千五百年の報恩記念として、これまでの小倉開山講を拡大した第二開山講を信達·安達の信心の士を以て組織し、講金1人10銭を1口として募集したものである。それに特志者の奉納金を得(本堂内にその寄付者氏名がある)、さらに寺有林から松や杉などを伐り出して建設にあたった。落慶大法要には、3日間の御開山を修業、「初日、善男善女の参詣、実に二万と称せられ、古今未曾有の盛会なりき」と記されている。このときの接待の赤飯は3石余、当日の回向袋の奉納米は11俵に及んだ。山門は三間一戸で、中央間の通用口に廻縁をめぐらした楼門造りである。屋根は入母屋造り、その正面に千鳥唐破風を設けている。
 左右に配してある木造阿吽仁王像は、前住三十代瞬童が建立したもので、親子二代にわたる努力によって完成したもの。

吽形像
阿形像
伊達稙宗公の墓

◆伊達稙宗公の墓

 伊達家十四世稙宗公は郡守として伊達郡桑折西山城に居住当時、当寺開祖盛南禅師と逢遇し、師に帰依し菩薩大戒を授與される。やがて禅師のために天文5年(1536)七堂伽藍を創建し山号を地名に因み位作、寺名を枝葉繁茂を祈念し陽林と命じ寺領五百石を寄進、自ら開基となる。永禄8年(1565)6月丸森城にて卒去。世寿78才。

伊達実元公の墓

◆伊達実元公の墓

公は当寺の開基伊達家十四世稙宗公の三男で、亘理伊達侯(現宮城県亘理町)の祖、成実公の父に当たる。大森城より松川八丁目城に移り、天正15年(1587)4月卒去。世寿61才。上杉家より竹に雀の寺紋を贈られた。尊牌は亘理町大雄寺の廟に移された。

◆坐禅石

陽林寺開祖盛南舜奭禅師が永世4年(1507)夢告を受け静岡県森町雲林寺の師に暇を乞い飛錫してこの地に至る。この地はあたかも雲林寺周辺に酷似している所からここに草庵を営み、以来七星霜この石に打坐し永正10年(1513)伊達稙宗公と値遇されたところである。

◆衆寮と愛宕権現

 禅寺で修行僧の常住する所が衆寮で、本堂西側の31.5坪の平屋建て入母屋造り一重垂木の建物がそれである。中にはいつの頃か蚕室に利用された形跡が見える。愛宕権現は正面奥の一番高い壇にあり、春日造りの屋根を持つ厨子で、内に勝軍地蔵尊を祀る。縁起不詳であるが昔から小倉の里人の総鎮守であったという。

愛宕権現
衆寮

◆石仏群

 惣門を過ぎると、左手に沼が開け、正面に山門が見渡せる緩やかな道となるが、その右手の台地にほぼ等身大の石仏が8体(八体地蔵)、寂然と立ち並んでいる。いずれも頭を丸めた、円頂の沙門形(僧形)をした丸彫の地蔵菩薩立像である。これよりやや離れて左手に、珍しい石造の阿弥陀如来坐像がある。さらに山内には小さな地蔵菩薩が群立している。

阿弥陀如来座像
阿弥陀如来坐像
地蔵菩薩立像
八体地蔵菩薩立像